懐かしきリア充の日々 後編
2020年2月8日 エッセイ コメント (2)大学生活も3年目に入り、就活を考える時期になった。
最初の合同セミナー?には参加したのだが、ここで予想外のアクシデントが発生した。
病を得てしまったのだ。
夏頃だったか、身体にちょっとした違和感が出たと思ったら、急に悪化してしまった。
駅前近くの病院にかかり、老医師から長ったらしい病名を告げられた。
ついでに「帯状疱疹も出てますね」と言われたのは覚えている。長ったらしいほうは紙に書いてくれたのだが、何という病名だったか、忘れてしまった。
これにより、就活どころか学業のほうにも黄信号が点灯した。
一時は休学も考えるほどになったが、「やれるだけやってみよう」と思った結果、ほんのわずかだが単位を取得することができた。
こんな状態だったから、サークルからも足が遠のいた。この時期の記憶は、病院に通っていたものばかりだ。
4年目の春、病状がわずかだが改善したことで大学にもかなり顔を出せるようになった。
ただ、医師から外出制限をかけられていたので、この頃の記憶もあまり無い。
6月だったか、母校での教育実習のために一時帰省した。
Kという教頭とソリがあわず、落第とは行かなくも散々な評価を付けられた。
そして時は流れ、翌春。
病の治療に専念するため、2月の初めにアパートを引き払ってから卒業式に参列すべく約1月ぶりに上京した。
証書と教員免許状をもらって、千葉だかの出身の同期の見送りに九段下まで連れだって出掛けた。
しばらく数人で桜を眺めつつ、「またいつか会おう」と言葉を交わして別れた。
あれから約20年もの月日が流れてしまったが、
あの日の約束は未だ果たされていない。
最初の合同セミナー?には参加したのだが、ここで予想外のアクシデントが発生した。
病を得てしまったのだ。
夏頃だったか、身体にちょっとした違和感が出たと思ったら、急に悪化してしまった。
駅前近くの病院にかかり、老医師から長ったらしい病名を告げられた。
ついでに「帯状疱疹も出てますね」と言われたのは覚えている。長ったらしいほうは紙に書いてくれたのだが、何という病名だったか、忘れてしまった。
これにより、就活どころか学業のほうにも黄信号が点灯した。
一時は休学も考えるほどになったが、「やれるだけやってみよう」と思った結果、ほんのわずかだが単位を取得することができた。
こんな状態だったから、サークルからも足が遠のいた。この時期の記憶は、病院に通っていたものばかりだ。
4年目の春、病状がわずかだが改善したことで大学にもかなり顔を出せるようになった。
ただ、医師から外出制限をかけられていたので、この頃の記憶もあまり無い。
6月だったか、母校での教育実習のために一時帰省した。
Kという教頭とソリがあわず、落第とは行かなくも散々な評価を付けられた。
そして時は流れ、翌春。
病の治療に専念するため、2月の初めにアパートを引き払ってから卒業式に参列すべく約1月ぶりに上京した。
証書と教員免許状をもらって、千葉だかの出身の同期の見送りに九段下まで連れだって出掛けた。
しばらく数人で桜を眺めつつ、「またいつか会おう」と言葉を交わして別れた。
あれから約20年もの月日が流れてしまったが、
あの日の約束は未だ果たされていない。
コメント
連絡先、生きてるかな…?